NPO法人 日本アレルギー友の会

ぜんそく体験記:長年の在宅酸素療法を卒業して

2013年9月14日

持って生まれた喘息患者だった私は物心ついてから喘息でなかった私を憶えていません。それでもこうしてこの齢まで生きてこられました。ここに拙文ですが、私の喘息体験を書かせて頂きます。 

神奈川県 AT(70歳) 

1雪国での生活

生まれは新潟でも雪の深い魚沼に高校を卒業するまで過ごした。空気が美味しく自然が豊かな所だが、雪国は私には厳しい面も多かった。暖房も行き届かない時代で風邪を引いてよく発作を起こしていた。当時は町医者で発作止めのネオフィリンの静脈注射してもらった程度であった。

2大学、就職、そして結婚

大学入学と同時に都心に居住するようになった。田舎育ちには人ごみと喧騒、空気の悪さに故郷へ帰りたくなることも多かった。また、薬学部だったので化学実験は必須で、その実験では私には刺激の強いガスを吸う事が多く、実験後は必ず発作を起していた。しかし、上京したお蔭で国内有数の専門医に巡り合えた。

 卒業後就職し、三年後に結婚した。そして、郊外に転居し、娘二人を出産した。その娘達が二人同時に社会人になるまで二十六年間は発作も起こしていたが入院はせず、都心に遠距離通院をして過ごした。

3 大発作そして入院

しかし、二人の子供たちが社会人になった平成六年の春にホットしたのか急速に体調を崩し、その年の七月の暑い日に大発作のため喘息では初めて入院を三カ月間もしてしまった。ここで初めて喘息の本格的治療法、吸入ステロイドの重要性を学んだ。その入院は吸入ステロイド(アルデシン)を九吹き四回、内服ステロイドを三錠までに減らし退院となった。勿論、ステロイドの副作用であるムーンフェイス、高脂血症などがでた。そしてほとんど動けず、家事は夫・娘達にやってもらった。家族が出かけ、一人で寝ているのは辛く淋しかった。この頃、瞳に霞を感じて診て頂くとステロイド白内障と言われた。これ以上ステロイドの副作用は御免だ。ステロイドを切りたいと思った。主治医に相談すると「ヨシ、切るぞ!」と言ってくださり、三カ月に半錠ずつ一年半かけて減らした。そして内服ステロイドから吸入ステロイドに移行ができた。大発作を引き起こしてから三年後の平成九年であった。それでも息苦しさと、惨めな生活は続いた。

4 在宅酸素療法

先生に相談すると、一つだけ方法があるとおっしゃり、それは「在宅酸素療法」だった。近くに出かける時にも重い酸素を引っぱって行き、精神的には落ち込むことも多かった。しかし、酸素を使用しだし呼吸が少しは楽になってきた。そんな時、次女の米国留学が決まった。私は、娘の学園生活も見たいし、初めての海外にも行きたくなった。主治医には許可書、テイジンには酸素ボンベの海外携帯、航空会社には酸素ボンベの持ち込み、アメリカの各宿泊先での酸素ボンベと酸素発生器の手配等大変であった。でも、皆様の協力を得てクリスマスと二十一世紀の幕開けの正月を米国で家族全員一緒に過ごすことができた。

帰国後は自信も付き、なんとか家事もやり、自分で動ける最低限の生活も少しずつだが広がってきた。

5 在宅酸素療法の考え時と転院

平成九年から九年間酸素を使ってきた平成十八年のある時、主治医から「思い切って酸素を切ってみないか。君が切れば他の人も取れる人が出てくると思うよ」と言われたが切る勇気はなかなか湧かなかった。

そして、主治医が定年を迎えられ都内に開業された。私の年齢も六十五歳になり酸素を引きずって相模原から都心に通うのがとても辛くなってきた。通う度に疲れ発作を起して、ステロイド点滴、帰宅後は何日も動けない状態が続いた。その頃、主人が大腸ポリープの手術を受けることになり(独)相模原病院に入院することになった。二月の寒い日であり、過労でもあったため入院に付き添った私の方が発作を起してしまった。この時点滴をしてくださったのが、今の主治医の押方先生であった。そこで「先生、こちらで診ていただけませんか」と思わず祈るような本音が出た。「私でよかったら・・・」とのお返事が思いの外いただけた。

そして(独)相模原病院に転院した。十一月に検査入院が決まり、肺機能検査・呼吸機能検査など各種検査を受けた。検査入院では体力を落とさないようにとリハビリ室にも通ったが、酸素を付けても動くと発作を起してしまい苦しかった。そこで、酸素を持ちながら階段を上下するリハビリに切り替えたが、やはり苦しさは変わらなかった。

6 在宅酸素療法の決別

そして、就寝中に酸素の流量を看護師さんが知らない間に絞りこんでいくようになった。

それまで酸素を取る説明がなかったので治療方針がどういう事なのか分からず戸惑い、ひどく落ち込んだ。そこで、治療方針を自分にも家族にも分かるように説明を先生に求めた。先生は快く承諾してくださり、私・夫・娘の三人に夜時間を造って会議室を用意し、しっかり説明してくださった。私の肺・気管支の酸素を付けた時と外した時のデーターを伴いながら分かりやすく話してくださった。血液中の酸素と炭酸ガス濃度により酸素吸入していない時の方がむしろ正常値に近づいているデーターが示された。それで、酸素を使用しなくても十分に一般生活ができるほど回復してきているのでその方向で治療しましょうと話され、私も家族も納得した。そして、思いっきって酸素を就寝中に取ってみたところ、これまでは朝方苦しかったのが嘘のように快適な目覚めとなり本格的な治療開始となった。

先ず、酸素なしで階段の上り下り、その歩行距離を増やす計画が立てられ、売店まで行ってみる。入浴。談話室で少しおしゃべり。次は、病院棟の外へ出てみること。病院の庭、駐車場など、全て、できた!

健康な人が普通にやっていること、それができた事がこんなに嬉しいなんて、病気になってみなければ分からない事だ!

体全体の部分検査、胃カメラ・子宮内視鏡・心電図なども全て正常であった。私は生まれ変わる事ができたようだ。

このように検査入院も、忘れもしない平成十八年十二月十二日の非常に寒い日に退院となった。しかも酸素を使わないでも良い状態となってだった。

退院時に医長先生から「家に帰ったらパルスオキシメーターを付けて酸素九十四%以上・脈拍百二十拍以下の状態で毎日十五分間歩くことを始めてください」と言われた。

退院後、この教えを守って家の近所の散歩が始まった。これまで九年間も酸素を持って歩いていた道は何だか違う道を歩いているように思えた。歩く時間も少しずつ伸ばしていって、とうとう酸素なしの生活になる事ができた。テイジンさんから借りていた酸素ボンベと酸素発生器も心配でなかなか返却できずにいたが、やっと返却する勇気も出てきた。引き取りに来た方が「こんな長い間使っていた方が元気な状態で返却されたのは初めてです。おめでとうございます」と、言って下さった。

ゆっくり、ゆっくりとしか歩けず、息切れも相変わらずあったが、確実に私の生活レベルは上がってきた。

退院二年後には相模原から多摩地区に引っ越しもした。「老木は移すと枯れる」と言われるが、正にこの歳での引っ越しは肉体的に大変であった。さらに、近隣には親しい友人もなく、体調の良い時にチョッと話す方がいないのはとても淋しい事であった。しかし、買い物や駅も近いマンションであり、夫も定年となりサンデー毎日なので家にいることが多く、車で五分の所には長女の家族がいて、男三人の孫がしょっちゅう遊びに、食事に、お泊りしに来てくれとても疲れるが賑やかで楽しい生活となった。そして、たまには主人や娘達とも一泊旅行ぐらいは行けるようにもなった。生きていてよかった、生きて来られてよかったなぁ~と思えるようになったこの頃だ。

今、使っている主な薬はキュバール四吹き、スロービット百㎎一錠、オノン二錠全て朝晩である。

これからは身の丈に合った生活でゆっくり過ごしていきたいと思っている。苦しい時も沢山あったけど、楽しい事・嬉しい事、人間らしく生きてこられたのは、両親の育て方、家族の理解、友人、そして、あおぞらの皆様のお世話になりながら一生懸命生きてこられたお蔭と思っている。